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新連載:全日本実業団陸上が10倍面白くなるコラム【第1回】 (2017.08.29)
<開催地長居と関わりの深い朝原宣治さんにインタビュー>
~ボルトが走り、日本の4×100mRが世界トップレベルに躍進した大阪世界陸上から10年を経て思うことは?~
開催まで1カ月を切った全日本実業団陸上2017(9月22~24日:ヤンマースタジアム長居)。トップ選手が多数出場するこの大会を面白く見るための視点を、5回のコラムで紹介していきたい。その1回目は北京五輪4×100 mR銅メダリスト、朝原宣治さん(大阪ガス)のインタビューをお届けする。
ちょうど10年前の2007年に長居競技場で大阪世界陸上が開催され、朝原さんがアンカーを走った4×100mRはアジア記録(38秒03)を樹立して5位に入賞。その活躍で地元観衆を大いに沸かせ、日本の4×100mRが世界のトップで戦い続ける時代の幕を開けた。また、ウサイン・ボルト(ジャマイカ)にとっても大阪世界陸上は1つのステップだった。200 mで2位となり、シニア大会初メダルを獲得したのだ。そのボルトが今年いっぱいで引退することを機に、人類史上最高のスプリンターの功績を振り返ってもらった。
◆ボルトの評価は「ピークの高さ」と「勝ち続けたこと」
Q.今年で引退するボルト選手は、大阪世界陸上の200m2位がシニア世界大会初メダルでした。ケガをして休んだシーズンもありましたが、10年間、世界一を続けてきたことをどう思いますか。
朝原さん:ピークは2009年のベルリン世界陸上でしたが、ピークの山が極めて高かった(2種目で世界新。9秒59と19秒19)。ピークがぎりぎりで勝つレベルだったら、その後は勝ったり負けたりになったのですが、ボルト選手は少し調子が悪くても勝ってしまう。そこがまず、すごかったと思います。そしてもう1つは、勝ち続けること、チャンピオンでい続けることのすごさです。ミルズ・コーチはロンドン五輪(9秒63のセカンド記録)の2012年が一番強かったと言っているようですが、僕はロンドン五輪の方が強引に走っていたように見えました。風などの条件もロンドン五輪の方が良かった(ベルリン世界陸上は追い風0.9mだったのに対し、ロンドン五輪は追い風1.5m)。それでも、史上初の五輪2大会連続短距離2冠をやってレジェンドになる、と言っていたことを有言実行してしまう。普通の選手だったら世界記録を出すだけで自分はレジェンドだと思いますよ。それをリオ五輪まで3回も続けてしまった。そこが世界記録を出したことより意外に思いました。僕だったらやめていたでしょうね。36歳まで続けた僕が(笑)、そう思うんです。
Q.大阪世界陸上はボルト選手が200 mだけで、朝原さんは100 mでした。4×100mRもボルト選手は大阪が2走で、翌年の北京五輪は3走だったのに対し、朝原さんは2大会とも4走です。朝原さんが2008年で引退されたので2人は一緒のレースは走っていませんが、現役時代はどういう印象を持っていましたか。
朝原さん:ヨーロッパ遠征中に一度、同じグラウンドで練習をしました。たぶんコーチをミルズ氏に変えたばかりの頃で、2人でこれからやっていくんだ、という雰囲気でしたね。それ以前から世界ジュニアと世界ユースで優勝した背の高い選手ということで注目していましたが、ケガが多くて伸び悩んでいた。あそこまで大きいと難しいのかな、と思ったりもしていましたが、大阪世界陸上で2番になって「来たか」と思いました。でも、翌年に100mであれほどブレイクするとは思っていませんでしたね。5月にニューヨークで9秒72の世界新を出したのですが、「ボルトって、あのボルト?」と思いましたもん。2007年までの自己記録が10秒03で僕より0.01秒遅かった。僕がいきなり9秒8台で走ったら、自分でも信じられませんから。タイムだけでなく、ニューヨークでは大阪世界陸上2冠のタイソン・ゲイ(米国)選手に勝っていました。2007年と08年は別人と言って良いくらいです。日本選手でいえば、今シーズンの多田修平(関学大)君みたいな感じですね。少し昔だったら、伊東浩司さんがそうでした(1998年に自己記録を10秒21から10秒00=日本記録=まで短縮)。
Q.ボルト選手の功績は、どの点が素晴らしかったと思いますか。
朝原さん :一番は陸上競技の枠を超えて、プロのスポーツ選手のレジェンドと同じように世間から見られるようになったことです。本人もよくサッカーのペレや、ボクシングのアリの名前を出していましたが、そのくらいの人気やカリスマ性がありました。もう1つは観客と一体になって力を発揮していたこと。レース後のウイニングランは以前からありましたが、スタート前にもパフォーマンスをして観客を沸かせて、レーン紹介のときにはカメラに向かっておどけた仕草をしてみせる。ボルトの前の世界記録保持者だったアサファ・パウエル(ジャマイカ)は正反対で、真面目に集中するタイプでしたが、いつからかボルトに影響されてリラックスした表情を見せるようになりました。ボルトが考えて自分のスタイルにしたのか、彼にとって自然のキャラなのかわかりませんが、たぶん、大阪世界陸上のときはやっていなかったと思うんです。ニューヨークで世界記録を出して自信をつけて、北京五輪でやってみて、お祭り気分で突っ走ったら2種目とも勝ってしまった。あそこで失敗していたら続けていなかったと思いますが、やってみたら自分も集中できたし、観客も喜んで、それがまた自分の力になった。これはいいな、と思って自分のスタイルにしたのでしょう。それで世間的な注目度も上がって、陸上競技の人気が上がっていきました。彼のサービス精神は、多少は計算していたのかもしれませんが、本気でファンのことを思っていたと思います。ロンドン世界陸上でライトニングボルトのポーズをしているところを、テレビカメラが目の前に来て撮ろうとしたら、スタンドの観客から見えないじゃないか、と前を空けるように指示していました。最後の世界陸上は、もうちょっと競技に集中してもらいたかった、という部分はありますけど。ボルト選手は大阪世界陸上でゲイ選手に負けて、なんとしても北京五輪で勝ってやろうと思って100 mへの挑戦も決めたし、トレーニングも頑張ったと話していました。そういう意味では、日本では1回しか走っていない長居のあのレースが、ボルト選手が変わるきっかけになったと言っていいわけです。
◆2007大阪世界陸上の”チーム朝原”の功績と、その後の4×100mRに残した伝統とは?
Q.大阪世界陸上は、日本の4×100mRにとっても転換点だったと思います。順位は5位でしたが、38秒03のアジア記録を出して世界のトップレベルに躍進しました。メンバーが1走・塚原直貴、2走・末續慎吾、3走・高平慎士、4走・朝原宣治で固定されて、翌年の北京五輪で銅メダルを取る流れを確かなものにしました。
朝原さん:1996年のアトランタ五輪は、僕がバトンミスをしてしまった。申し訳ないことをしてしまいましたが、翌年のアテネ世界陸上は38秒31の日本新(1レーンの世界最高)を出すことができました。しかしそこから10年間、日本チームはその記録を破ることができなくなってしまった。伊東さんが2走、末續君が3走、僕がアンカーだった2000年シドニー五輪も、超えられなかったし(準決勝で日本タイ)、決勝に進んでもメダルに近づくところまでは行けませんでした。01年からアンダーハンドバトンパスを採用して、04年からは高平君がメンバーに入って3走を固定できました。それらが上手く行って大阪世界陸上では10年ぶりに記録を更新し、北京五輪以降はあれだけ破れなかった38秒31を、普通に上回るようになりました。現在、100mの選手たちの気持ちに10秒の壁がなくなりつつあるように、大阪世界陸上後は選手たちに38秒31の壁がなくなった。リレーなら世界で戦える自信を持てるようになったのだと思います。
Q.バトンパス技術が伝統としてどう生きていると感じていますか。
朝原さん:土江寛裕コーチの提案で、07年頃からバトン受け渡しゾーンの20mだけでなく、その前後10mも含めた40mゾーンのタイムを練習で測定し、データ的な裏付けとするようになりました。それ以前はスタッフの目視や選手の主観で、それなりに最適な位置でバトンを渡していたとは思うのですが、客観的なデータが提供され始めたことで微調整の精度が上がったと思います。リオ五輪の前の年からはアンダーハンドバトンパスの改良型に取り組みました。それまでは相手にかなり近づいてバトンを渡していました。それが疾走フォームに近い動きでパスができるアンダーハンドパスの特徴なのですが、オーバーハンドパスの要素を取り入れて手を少し伸ばして渡すようにした。そういった技術を新しくメンバーに入った選手たちも、僕らの頃よりも早く習得するようになっています。スタッフにノウハウがあり、データも蓄積されていること、選手がインターネットで多くの映像が見られるようになったことが理由ではないでしょうか。そうしてバトンパスの精度が上がったチームは、予選よりも決勝で記録を縮めています。2010年のアジア大会でバトンパスを失敗したり、ロンドン五輪のように決勝でタイムを落としたりしていることもありますが、リオ五輪やロンドン世界陸上のように決勝でしっかりとタイムを上げてメダルを取るようになりました。
Q.走順を固定しなくても結果を出せるようになったことについては?
朝原さん:走順については、選手たちは自分が何走に入っても走りとバトンパスをイメージできるようになっているのだと思います。実は僕も一度だけ、1走をやったことがあるんです。2005年ヘルシンキ世界陸上の予選でしたが、あまり良い走りはできず、決勝は4走に戻りました。イメージができていたとは、言えなかったかもしれません。北京五輪以降は、誰が何走に入ってもしっかり走ることができるチームを目指してやってきました。その象徴が今回、ロンドン世界陸上の4走で銅メダルに貢献した藤光謙司選手でしょう。09年のベルリン世界陸上で僕の跡を継いで4走を走って4位に入賞し、13年のモスクワ世界陸上でもケガをした山縣君に代わって急きょ2走を任されて6位入賞。そして今回も、予選を走ったケンブリッジ飛鳥君に代わって、急きょ4走を走りました。桐生君も1走と3走をやっていますし、山縣君は1走と2走、飯塚君は4走と2走を代表チームで経験していますから。
◆引退する”3走”高平への”4走”としての思い。昨年の全日本実業団陸上で”止まっていた時を動かした”山縣
Q.朝原さんとアテネ五輪から北京五輪まで、4×100mRメンバーを組んできた高平選手が今度の全日本実業団陸上を最後に引退します。
朝原さん:高平君が3走として定着したことは日本にとって大きかったですし、4走の僕は何度も彼の機転に救われました。一番は大阪世界陸上ですね。手の中に入ったバトンを僕が握れなかった。高平君からすれば、空振りしたような感じになったはずです。でも、すぐに入れ直してくれると信じて僕は減速しませんでしたし、高平君も対応してくれました。2人の間の信頼関係があればこそのバトンパスだったと思います。北京五輪でも本番前のサブトラックでの練習では、やはり空振りする形でバトンをもらいそこねていました。でも、タイミングは合っていたので、レース本番になったら大丈夫だという自信をもって臨みましたし、高平君も「何があっても思い切り行ってください」と声をかけてくれました。”マックスマーク”という限界ギリギリの地点を決めているのですが、そのマークが来ても渡してくれると信じて減速しないで行きました。銅メダルのフィニッシュをして最初に抱き合ったのも高平君です(3走が一番早くフィニッシュ地点に来る)。僕が引退した後は、末續君が長期休養に入ったこともあって、彼が日本のリレーの中心選手の役割を果たしてくれました。2014年のアジア大会まではメンバーに入っていましたし、その後もナショナル・チーム合宿には参加しています。バトンパスの技術の見本を後輩たちに見せていたと思いますし、チームの信頼関係を作るところも彼が身をもって示していたはずです。個人としては、僕が100 mでファイナリストを目指していたように、彼も200 mで何がなんでも決勝に進みたいと考えていました。特に北京五輪後は、執念みたいなものを感じましたが、それは果たせませんでした。競技人生を振り返れば悔しさの方が大きいのではないかと想像しますけど、こと4×100mRに関しては”冷静な3走”という言葉で自身の役割を表現して、難しい走順を、誇りをもってやりきったと思います。バトンを空振りさせてしまった大阪世界陸上から10年後に、同じ長居の競技場で高平君が引退をするのは、僕にとっても感慨深いものがあります。
Q.長居の競技場は朝原さんにとっても、思い出が多い競技場ですか。
朝原さん:学生(同志社大)時代から何度も走っていた競技場ですが、1996年の日本選手権が僕にとっても衝撃的というか、印象に残っている大会です。アトランタ五輪の選考会で、競技場の大規模な改修工事が終わってこけら落としの大会でもありました。そこで10秒14の日本記録で優勝できたんです。大学3年の93年に10秒19の日本新を出しましたが、94年、95年とそのタイムを更新できませんでした。当時は走幅跳が自分の専門種目だったので(自己記録は8m13。95年イエテボリ世界陸上12位)、アトランタ五輪も走幅跳で狙っていて、100 mは”力がついているのは確かだから狙えるなら”という気持ちでした。95年からドイツに陸上留学して、その成果を出すことができたのが96年の長居開催の日本選手権でしたね。アトランタ五輪でも100 mの方が良くて準決勝まで進みました。今年のサニブラウン君と同じです。彼も日本選手権前は、標準記録を破っていた200 mで世界陸上を狙っていましたが、100 mで一気に記録を伸ばして優勝して、ロンドンでも準決勝に進んでいます。彼は200 mで、ファイナリストを実現させていますけど。11年後の大阪世界陸上の1次予選(当時は1次予選、2次予選、準決勝、決勝の4ラウンド制)で、96年の日本選手権で出した10秒14とまったく同じタイムで走りました(2次予選10秒16、準決勝10秒36)。それも何かの縁なのでしょう。
Q.全日本実業団陸上という大会に対しては、どういう考えを持っていますか。
朝原さん: 僕の2回の10秒14が、長居の競技場の日本人スタジアムレコードとしてずっと残っていたのですが、それを昨年の全日本実業団陸上で20年ぶりに破ってくれたのが山縣君です。準決勝で10秒12と更新しましたが、そのタイムが実は、僕が2002年に出した全日本実業団陸上(福島開催)の大会記録とタイでした。決勝では10秒03の自己新と一気に縮めてくれましたね。今年6月の日本選手権も長居競技場開催で、サニブラウン君が予選から決勝まで10秒0台を3回続け、ケンブリッジ君が予選で10秒08、多田君も準決勝で10秒10を出しています。それを考えると不思議ですが、20年間と14年間止まっていた時を、昨年山縣君が動かしてくれました。学生にはインカレがあって、とても盛り上がって選手のパフォーマンスが上がる大会になっています。それに比べて全日本実業団陸上はこれまで、盛り上がりという面では今ひとつでした。昨年から日本実業団連合が集客にも力を入れ始めるなど、盛り上げるための施策をいくつも行っています。選手もこの大会を目標として強い意思で取り組めば、昨年の山縣君のように素晴らしい記録を出せる。今年の大会まで1カ月を切りました。世界陸上代表だった選手はその力をしっかり見せてほしいし、同じ長居開催だった日本選手権で敗れた選手は、そのリベンジに燃えて臨んでくるでしょう。今年も盛り上がる大会になって実業団選手のレベルアップにつながるよう、僕も協力していきたいと思います。
※朝原宣治さんプロフィール
1972年6月21日、兵庫県生まれ。
中学時代はハンドボールで全国大会に出場。
高校から陸上競技部に入り、3年時(1990年)に走幅跳でインターハイ優勝。
1993年の国体100 mで日本人初の10秒1台となる10秒19の日本新。同年のアジア選手権走幅跳優勝。
1996年日本選手権100mで10秒14の日本新をマークし、走幅跳と2種目でアトランタ五輪に出場。前年のイエテボリ世界陸上では走幅跳で決勝に進んだが、アトランタ五輪では100mで準決勝まで進出。
1997年は7月にローザンヌで10秒08と日本人初の10秒0台で走り、アテネ世界陸上では4×100mRで38秒31のアジア新。
1999年には左足首を疲労骨折。手術まで行うほどの重傷で、99年のセビリア世界陸上は出場できなかった。2000年シドニー五輪も個人種目の代表入りができず、リレーだけの出場だった。
また、手術後は足首への負担を考えて100mに専念するようになった。
100mの日本記録は1998年に伊東浩司によって10秒00と更新されていたが、2001年7月には10秒02の日本歴代2位(現歴代3位)をマーク。同年のエドモントン世界陸上は2次予選を10秒06で走った。風速計の故障で非公認になったが、現地にいた関係者は微風だったという。
100mは96年アトランタ五輪、97年アテネ世界陸上、01年エドモントン世界陸上、03年パリ世界陸上、07年大阪世界陸上と準決勝に進出。
4×100mRでは00年シドニー五輪6位、01年エドモントン世界陸上4位、03年パリ世界陸上6位、04年アテネ五輪4位、05年ヘルシンキ世界陸上8位、07年大阪世界陸上5位(38秒03のアジア新)と入賞を続け、08年北京五輪でついに銅メダルを獲得(ドーピング違反の裁定次第で銀メダルとなる可能性も)。トラック種目では1928年女子800mの人見絹枝の銀メダル以来、80年ぶりのメダル獲得という歴史的な快挙の一員となった。
08年9月に現役引退。当時36歳と、短距離選手では異例の長さの競技人生に幕を引いた。
【全日本実業団陸上特集記事リンク】
「Road to 全日本実業団陸上2017大阪(第5回)」
「Road to 全日本実業団陸上2017大阪(第4回)」
「Road to 全日本実業団陸上2017大阪(第3回)」
「Road to 全日本実業団陸上2017大阪(第2回)」
「Road to 全日本実業団陸上2017大阪(第1回)」